牧野富太郎について書かれた本はたくさんあります。
特に、NHK朝ドラ『らんまん』(主人公・槙野万太郎)放送決定後は取り上げられることが多くなっています。
多くの本で(ドラマでも)神格化されている牧野富太郎という人は実際にはどんな人だったのか。
今回は、自伝(自叙伝)や『らんまん』では描かれない部分も含めて、記事にしてみます。
牧野富太郎という人を描いた本(おすすめ3冊)
今回の記事は、3冊の本の内容を少しずつ紹介(引用)しながら進めます。
なぜ、この3冊なのか。
まずはそれぞれの本を簡単に紹介しておきます。
『草を褥に 小説牧野富太郎』大原富枝
『草を褥(しとね)に 小説牧野富太郎』は、牧野博士や家族の手紙が大量に掲載されていて、その取材にかけたであろう時間や労力に驚かされる本です。
牧野博士が周りに迷惑をかけながら(!?)生きた、そんな側面も細かく描かれています。
『ボタニカ』朝井まかて
『ボタニカ』は新しい本(2022年発行)ですが、『草を褥に』と同様、膨大な資料を元に書かれたことがわかる内容で、それでいて文章は読みやすく、美しいです。
『牧野富太郎 自叙伝』牧野富太郎、牧野鶴代
『牧野富太郎 自叙伝』は、牧野博士を語る上では外せない自伝で、そして後半に牧野鶴代さん(三女)の「父の素顔」が収められています。
ちなみにこちらはkindle(キンドル)だと無料で読めます。
牧野富太郎という人とその生涯
では、上記3冊から見る、牧野富太郎という人と、その生涯について書いていきます。
裕福な家で得た自由
牧野富太郎博士は、岸屋という造り酒屋に生まれました。
当時の岸屋は豪商で、身分としても苗字帯刀を許される上流階級でした。
そして、早くに両親を亡くし、祖母の寵愛を受けて育ったことが、その後の破天荒とも言える生き方に繋がったようです。
父ちゃんも母ちゃんもおらん子ぉやき、大女将(おおおかみ)もふびんなんじゃろう。坊を一度も叱ったことがないらしい。
『ボタニカ』「岸屋の坊(ぼん)」
そんな育て方をしよったら、ろくな大人にならんのう。
こんな風に噂されるほどでした。
欲しいもの(特に植物に関する高価な本)は何でも買ってもらい、のびのびと育てられた牧野富太郎博士はとにかく、自由だったのです。
土佐という地域性と、その時代
幕末から明治にかけての土佐(高知県)という土地もまた、牧野博士を形作ったと言えそうです。
自由民権運動が盛んで、中江兆民や板垣退助など、土佐出身の活動家が多く「自由は土佐の山間より出づ」と言われるほどでした。
牧野博士も運動に熱中した時期もあり、その精神は「日本のフロラを明らかにする、日本人の手で」いうモチベーションとして、受け継がれていったように感じます。
「わしの思う自由は、学問でかなえますき」
『ボタニカ』「自由」
上記は、自由党を脱党する際のセリフです。
負けず嫌いな性格
土佐(高知)の「いごっそう」とも言えるでしょう。
牧野富太郎博士の功績をこれだけ大きなものにしたのは、負けず嫌いな性格も関係しています。
当時の日本の植物学は体系的な形ができておらず、海外に遅れていました(植物の同定を海外に依頼するほど)。
明治以降の時代的背景(列強に追いつけ、という)と相まって、研究の成果や出版物を競い合い、大学での権力争いも熾烈でした。
植物学の中でもたくさんのライバルがいた中で、結果的に牧野富太郎という人が現代においても(際立って)名を残しているのは何故なのか。
実力に加えて、「負けたくない」という気持ちの強さ(そこから来る自己顕示欲)があったからだろうと思います。
大学の矢田部教授と対抗して、大いに踏ん張って行くということは、いわば横綱と褌担ぎとの取組みたようなもので、私にとっては名誉といわねばならぬ。
『牧野富太郎 自叙伝』「博士と一介書生との取組」
(中略)
海南土佐の一男子として大いにわが意気を見すべし
莫大な借金と支援者たち
牧野博士は、大学の講師(教授ではないので薄給)を務めながら、本の購入や植物採集の旅費、自費出版の費用などには支出を惜しまない、というお金の使い方でした。
当初は実家である岸屋のお金を使い、岸屋が潰れた後、やがて借金が莫大なものになります。
月給が数十円の中、3万円もの借金(!?)を作ったのです(現在に換算すると数億円!)。
給料の何倍もの支出をし続けるというだけでも驚きなのに、牧野博士が特別なのは、何度も支援者が現れ、借金を肩代わりしてもらう、というところです。
詳細はここでは触れませんが、主な支援者達の名前を。
揉めることも気にしない(?)、我が道を行く
たくさんの支援者が現れたとはいえ、途中で支援が打ち切られる、ということもありました。
特に池長孟(いけなが・はじめ)さんは、借金の肩代わりの上に、その後の牧野博士の生活を援助しようとし、牧野博士との共同計画も動いていたものの、やがて関係が悪化します。
その辺りは『ボタニカ』にも『草を褥に』にも、書かれています。
池長は三万円という借金地獄から救い出してやっただけでなく、私生活を助けるために関西植物会の月一回の講演会による謝礼も出しているのに、牧野は自分の雑誌に夢中になって、その講演を平気ですっぽかした。
『草を褥に 小説牧野富太郎』「「植物研究雑誌」にかけた思い」
牧野博士、酷いな・・・と思いながらも、偉人ならではの「我が道を行く」生き方なのかな、とも。
寿衛子さんと家族の支え、牧野記念庭園
大学の教授たちに嫌われたり、支援者から見放されることはあっても、牧野博士をずっと支えてくれる人もいました。
2人目の妻であった寿衛子(すえこ)さんは、その中でも大きな存在でした。
極貧の生活から脱する為、寿衛子さんは待合(まちあい)を経営し、牧野家の家計を支え、ついには練馬の大泉に家を建てるのです(現在の牧野記念庭園)。
「東大泉を七百坪買いました」
『草を褥に 小説牧野富太郎』「「いまむら」廃業」
手付金を払うと、寿衛子は早速、夫の牧野富太郎に報告した。
「七百坪? そ、それは広すぎる」
富太郎は思わずそう答えたという。
牧野家はそれまで、家賃を滞納し、毎年のように引っ越しをせざるを得ない生活だったのが、寿衛子さんの商売(待合)で稼いだお金で家を建て、牧野博士の終の棲家となったのです。
寿衛子さん亡き後は、三女である牧野鶴代さんが助手として、牧野博士を支えました。
最初の妻だった猶(なお)さんもそうだし、家族の支えあっての牧野博士、なのです。
好きなことを続けた
牧野博士ほど、好きなこと(植物)を生涯に渡って続けた人は、珍しいでしょう。
九十三歳までは、大抵夜寝るのは二時か三時ごろです。(中略)ある時は安全器を切って停電だといって寝かせましたら、もう苦心惨憺したものです。(中略)毎晩毎晩あの手この手と考えて、寝かせる算段をしたのですけれどもだめでした。
『牧野富太郎 自叙伝』「第三部 父の素顔 牧野鶴代」
94歳で亡くなる直前まで、牧野博士は毎日のように深夜まで植物の研究、仕事をし続けたのです。
まとめ(博士とヒト、植物の旅)
牧野富太郎博士について、3冊の本と共に、紹介してみました。
おそらく『らんまん』の槙野万太郎は、違う描かれ方になるのでしょうね。
本当の(?)牧野富太郎博士は、聖人ではなく、周りにかなり迷惑をかけた人物だったのだろう、と想像します。
しかし、牧野博士の成果物(図鑑、文章、絵)は、ヒトを旅させます。
練馬(東大泉)の牧野記念庭園も行ってみたくなったし、高知の牧野植物園や横倉山の植物を見てみたいです。
『草を褥に』の大原富枝さんも、『ボタニカ』の朝井まかてさんも、相当な植物好きなのだろうと、作品を読めば解ります。
植物が牧野博士に旅をさせ、博士がヒトを旅させ、旅先には植物がある。
そんな状況を、牧野博士もきっと喜ぶでしょう。
・三菱財閥の岩崎家
・池長孟(神戸の富豪・美術品収集家)
・津村重舎(津村順天堂※ツムラの創業者)