子どもの頃、大阪の土佐稲荷神社の隣のマンションに住んでいました。
春の夜、ベランダから見える、雪洞(ぼんぼり)の柔らかい灯りに照らされたサクラが綺麗でした。
江戸時代から続く桜の名所だったそうで、今思えば由緒あるサクラを見て育ったのだなと思います。
この記事では、そんな桜の木・ソメイヨシノについて、桜という植物全般に触れながら紹介します。
まだ新しいソメイヨシノの歴史
平安時代に花見はウメからサクラへ
今、花見と言えばサクラ鑑賞であり、ほとんどの場合ソメイヨシノの事を指しますが、ソメイヨシノの歴史はそれほど古くはありません。
江戸末期に染井村(東京都豊島区付近)の植木屋によって売り出されたのがスタートで、そもそも奈良時代までは花見の主役はウメでした。
サクラの花見が増えたのは平安時代からで、花見の習慣が一般的になったのは江戸時代、八代将軍・徳川吉宗の頃以降です。
参勤交代によって全国からさまざまな花木が江戸に運ばれ、その中でも人気だったサクラを吉宗が植栽させ、庶民に花見が広がるきっかけになったといいます。
戦争もなく、平和で安定していた時代。人々は花の美しさを求めたのでしょうか。
サクラの起源はヒマラヤ山脈
植物としてのサクラの起源は、ヒマラヤ山脈とされています。
ヒマラヤから中国南部、台湾に分布するのがカンヒザクラで、大陸と地続きだった時代に日本に分布を広げた種が、島国で独自に進化を遂げたのがオオシマザクラやヤマザクラといった日本の9種(10種という意見もあります)の野生のサクラです。
江戸時代、参勤交代で全国から集まったサクラ
現在のような園芸種としてのサクラの文化は前述のように江戸時代からです。
元々、雑種が生まれやすい樹木です。
参勤交代で江戸に持ち込まれた各地のサクラは、江戸で交雑し様々な種が生まれます。
ソメイヨシノもその一つで、広まったのは明治時代以降。
明治政府は徳川時代のあらゆるものを否定し、桜もその影響を受けました。
各地のヤマザクラがソメイヨシノに植え替えられたのです。
軍国主義に利用された昭和
昭和に入り、サクラはナショナリズムの高揚の為に利用されます。
当時の教科書は“サクラ読本”と呼ばれ「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」というような軍国主義を題材にした内容が増え「若くして潔く散る事が美しい」、とサクラを愛でる美意識が象徴化されました。
現代において、サクラに軍国主義のイメージはないでしょう。
しかし、植物にも流行があります。
時代と共に求められる花は変わり、目にする草木は置き換えられ、姿を消していくものもあります。
ソメイヨシノはクローン種
ソメイヨシノはクローン種です。
同じDNAを持つ1本の木であり、自然に増える事はありません。
種子から芽が出たとしても、それは親の形質とは変わってしまう為、ソメイヨシノではなくなります。
桜前線として開花時期が指標になるのもクローン種だからこそです。
また「ソメイヨシノには実がならない」と言われるのは、一種だけで植樹される場合が多く(自種同士の受粉になり)、結実することがほとんどない(自家不和合性)、という事です。
これまで増えたきたのは接木や挿し木によってであり、人間あっての樹木なので100年も放置されたら絶滅してしまいます。
世界中に輸出される日本のサクラ
園芸種として生まれたサクラは、人類の関心を引いて生息域を広げる事を選んだのかも知れません。
それは確かに成功しており、こうして全国で植えられ、毎年多くの人たちに花見の場を提供しています。
ワシントンD.C.では、1912年に東京から寄贈されたサクラが名所になり、毎年数十万人もの人が訪れます。
カナダ・バンクーバーの桜まつり、スウェーデン・ストックホルムの王宮広場のサクラも有名です。
江戸時代、日本で生まれたサクラは世界中に渡り、人々を魅了しています。
変わる人、変わらない花
土佐稲荷神社の桜まつりでは、花見よりも屋台で綿菓子を買ってもらったり、金魚すくいが楽しみでした。
おじいちゃんと一緒に持って帰った金魚は長く、家族のペットでした。
大人になり、綿菓子や金魚が花見のビールやワインに替わり、今はカメラのレンズを通してサクラの四季を見ている自分がいます。
平和だから花を求めるのか、花があるから平和になるのか。
一つ言えるとしたら、何か意味を持たせようとしたり、別のものと重ね合わせようとする僕たちの期待があろうと無かろうと、サクラは春になれば花を咲かせるんですよね。
植物名 | ソメイヨシノ |
漢字名 | 染井吉野 |
別名 | |
学名 | Prunus x yedoensis |
英名 | Yoshino cherry |
科名・属名 | バラ科サクラ属 |
原産地 | 日本 |
花期 | 3~4月 |
以下、この記事を作るにあたり、参考にした本です。
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